
☆縁起
推古天皇の時代(西暦594年頃)、周防国(すおうのくに)青柳の浦(現在の山口県下松市(くだまつし))の松樹に北辰尊星(ほくしんそんしょう)が降臨し、七日七夜輝いて大内氏の祖といわれる百済の琳聖(りんしょう)太子の来朝を守護しました。
この琳聖太子が妙見菩薩の尊像並びに霊符の曼荼羅、星供十二の巻物、八卦(はっけ)の香炉具、その他霊宝などを帝に上進したところ、帝は代々星供を行わせるようになったということです。
その後、琳聖太子は茨城を訪れ、栗原の台に妙見菩薩をお祀りしたのが北斗寺の基になりました。
嵯峨天皇の時代(西暦821年)、時の名僧、最仙上人が勅命を受けて講導師として国分寺に住んでいた時、北辰霊府の秘法を修するため、小田の郷に勝地を求めて寺院を築きました。
そして、妙見菩薩を安置して天下泰平万民豊楽の行法を勤修し、上人自らが彫刻した薬師如来(鑿(のみ)を手にするごとに三度ずつ礼拝して彫ったという、いわゆる一刀三礼の作といわれている)を本地仏とし、七宝山医王院北斗寺と名付けました。
後冷泉院の頃(西暦1045~1067年)、源義家公が奥州下向の途中、小田の城にとどまった時、当山の妙見菩薩を参拝して願文を捧げ、朝敵退治の御祈願をされ、進発されました。
阿武隈川に着いたところ、連日の大雨で川が氾濫していて流石の強兵といえども渡ることができませんでした。この時、大将自ら妙見菩薩に丹誠祈念されたところ、すぐに功あり、たちまちみるみる川の水底より大亀が現れ、川を渡してくれ、再び下流の海へと戻って行きました。衆兵は愕然として、益々信心するようになったという言い伝えがあります。
戦国時代に戦火から逃れるために土浦市藤沢や田土部に移ったあと、1659年(万治2年)に現在の場所に建立されました。現在の妙見堂は、1703年 (元禄16年)に再建されたものです。